PastelBlue(連想:そよ風、夢見心地)
「続 ワタシイロのそよ風」——対象者(PastelBlue)に贈る、タンポポの笑顔が隠すもう一つの物語
この曲と対象者(PastelBlue)の関係
五曲目「続 ワタシイロの水平線」が海の底——八曲の最深部——に到達した直後に、この曲が来ます。深海から一気に地上へ。しかも地上のどこかではなく、そよ風の吹く野原へ。この浮上の速度と、着地した場所の穏やかさが、対象者(PastelBlue)という人の本質をそのまま体現しています。
3年前、「ワタシイロ光る」を歌っていたとき、対象者(PastelBlue)はすでにおバカキャラとしてのポジションを確立しつつあったのではないでしょうか。「自分の色で光る」。この人の「色」は、いじられても笑っている明るさ。それは確かに光です。グループの空気を明るくし、緊張を解き、メンバーとファンの距離を縮める。しかしその光で照らされているのは周囲であって、この人自身の深い部分は、むしろその光の影に隠れている。
「続 ワタシイロのそよ風」は、その構造を知った上で聴くと、まったく異なる表情を見せる曲です。八曲の中でもっとも軽やかで、もっとも明るい。聴いた瞬間に笑顔になれるポップソング。しかしその軽やかさの中に、胸が締めつけられるような二重構造が隠されています。
歌詞が描く、対象者(PastelBlue)の仮面と素顔
冒頭の「そよ風が頬を撫でて/パッと咲く心の花」。八曲すべての中でもっとも軽い立ち上がり。力みがない。気負いがない。「続 ワタシイロの水平線」の「私の声は届くのかな」という切実さの直後に、この無邪気さ。この落差自体が、対象者(PastelBlue)のグループ内での役割を物語っています。深刻な空気を一瞬で変えられる人。
しかしプロファイルを思い出してください。この軽やかさは天然のものではない。「パッと咲く」という瞬発的な明るさは、いじられて傷ついても傷を隠して明るく振舞ってきた3年間が作り上げた技術です。花が咲くのに理由はいらない。聞かれもしない。ただ咲けばいい。この人の笑顔も同じ。その自然さの裏に、どれだけの訓練が積み重なっているか。
コーラスの「パッと咲き パッとひらめき ハッピー」。この畳みかけるようなリズムに、対象者(PastelBlue)の知性の構造が完璧に表現されています。熟慮ではなく瞬発。論理ではなく直感。「解答でなく回答が得意」なこの人の知性は、まさにこの「パッと」の中にある。そしてひらめきの結果を正しさで測らず「ハッピー」で着地する。「正しいかどうかは興味ない、自分がどう思うかをしっかり持っている」というこの人の価値観が、たった三語のフレーズに凝縮されています。
「気持ちを歌にして届けるよ」。この一節は、五曲目「続 ワタシイロの水平線」と対になっています。対象者(Blue)は「私の声は届くのかな」と問うていた。対象者(PastelBlue)は「届けるよ」と宣言している。問いではなく意志。しかしここにも二重性があります。「気持ちを歌にして」——つまり生の感情をそのままでは届けられないことをこの人は知っている。だから歌に変換する。笑いに変換する。おバカキャラに変換する。自分の気持ちを相手が受け取りやすい形にパッケージし直して届ける。それはO型の社交性と牡牛座の本質把握能力が合わさった、誰にも気づかれない高度なコミュニケーション能力の発露です。
そして「泣いちゃっても 笑顔になる魔法」。この一行が、この楽曲のすべてが集約される一点であり、八曲を通じてもっとも残酷で、もっとも優しい一行です。
表面的にはポップソングのポジティブなメッセージ。しかしこの人は実際に、泣きたい場面で笑顔になる「魔法」を使い続けてきた。いじられて傷ついても明るく振舞う。その技術を「魔法」と呼んでいる。魔法には代償がある。この人の笑顔の魔法の代償は、自分の痛みが自分にすら見えなくなること。しかしこの歌は、その魔法を否定しない。あなたが使っているその魔法を、私たちは知っているよ、と。
Verse 2の「柔らかな光の中で/友達のままでいいよね」。深く踏み込まれれば仮面の下が見えてしまう。だから「友達のまま」がちょうどいい。近すぎず遠すぎず、笑顔でいられる距離。「時には迷い立ち止まるけど/優しさが道を照らすの」。常に明るく振舞い続けなくていい。迷っていい。そしてそのとき道を照らすのは正しさでも強さでもなく「優しさ」。この人がもっとも必要としているのは、自分自身への優しさなのかもしれません。
Bridgeの「空に浮かぶ綿菓子みたいに/ふわりふわり軽くなろう」。綿菓子という無邪気なイメージの中に、プロファイルで描いたタンポポの綿毛が重なります。周囲には甘い綿菓子に見えている。でも本当は、どんな場所でも芽を出せるタンポポの綿毛。
「手を繋いで風に乗ったら/未来へ続く道が見える」。一人で明るく振舞い続けてきたこの人が、誰かと手を繋ぐ。対象者(Pink)の「続 ワタシイロの温もり」でも「繋いだ手」が登場しましたが、あちらは経験に裏打ちされた覚悟の手繋ぎでした。こちらはもっと素朴で、もっと切実。笑顔の鎧を脱がなくてもいい。おバカキャラのままでいい。ただ手を繋ぐだけでいい。この人に必要なのは、変わることではなく、今のままの自分で誰かと繋がること。
八曲の中での「続 ワタシイロのそよ風」の意味
五曲目で海の底に潜った八曲は、この六曲目で地上に戻ってきます。しかもそれは劇的な浮上ではなく、そよ風に乗るような軽やかな帰還。深海の重圧から解放された瞬間の、ふわりとした感覚。対象者(Blue)が闇と手を繋んだ直後に、対象者(PastelBlue)の笑顔が現れる。その配置に深い意味があります。
八曲を一日の流れに例えるなら、「続 ワタシイロのそよ風」は午後の穏やかな風の時間。嵐が過ぎ去り、空気が澄んで、草原をそよ風が渡っていく。もっとも穏やかで、もっとも心地よい時間帯。しかしその穏やかさは、嵐があったからこそ際立つ。五曲目の深さがあるからこそ、六曲目の軽さが意味を持つ。
対象者(PastelBlue)はグループの中で「空気」の役割を果たしています。空気は見えない。当たり前のようにそこにある。しかし空気がなければ、誰も呼吸できない。場を和ませ、いじられることで緊張を解き、おバカキャラという仮面で全員を笑顔にする。グループの日常のすべての隙間を、この人の明るさが満たしている。
対象者(Purple)が方向を示し、対象者(Orange)がエンジンとなり、対象者(Pink)が安全網を張り、対象者(Green)が地面を固め、対象者(Blue)が表現の深度を与える。しかしそれだけではグループは「機能」はしても「生きた場」にはならない。対象者(PastelBlue)がいることで初めて、グループに「呼吸」が生まれる。笑いが生まれる。日常が生まれる。
五曲目までの五曲は、それぞれに深刻さや重みを持っていました。内省の重み、情熱の激しさ、経験の深さ、自制の苦しさ、感情の制御不能さ。しかしこの六曲目は、その重力から一瞬だけ解放してくれる。「パッと咲きハッピー」と歌われるとき、聴く人は理屈抜きに笑顔になれる。しかしその笑顔の裏にある二重構造を知ったとき、もう一度この曲を聴き直すことになる。
そこにこの曲の本当の力があります。一度目は笑顔で聴ける。二度目は泣きそうになる。「泣いちゃっても笑顔になる魔法」が、一度目の聴取では魔法として機能し、二度目の聴取ではその魔法の代償が見えてくる。聴く回数によって意味が変わる曲。それは対象者(PastelBlue)という人そのものの構造と同じです。知れば知るほど、この人のことがわからなくなる。わからなくなるほど、この人のことが愛おしくなる。
グループカラーの黄色にもっとも近い色を持つタンポポの花。踏まれても咲く。誰にも大切に育てられなくても咲く。しかしその根は見た目以上に深く強い。六曲目にして、八曲は「もっとも軽い曲」を手に入れました。しかしその軽さは、五曲分の重力を知った上での軽さ。だからこそ、そよ風のように優しく、そよ風のように確かに、聴く人の頬を撫でていくのです。

